Have you heard jazz?
"Have you heard jazz?"
鳥は確かにそう呟いて僕の部屋の窓から飛び降りた。地上の獲物を一瞬で捕食するかのごとくコンクリの地面目がけて垂直に飛んだかと思いきや、すんでのところで着地せず調布方面に飛んでいった。鳥、バード、チャーリーパーカー……そういえば森田童子の歌にもあったな。記憶をたぐった。
僕の六畳一間にはジャズのレコードは無かった。無論チャーリーパーカーも。そういった固有名詞は中間考査の一夜漬けの丸暗記のごとく僕の頭の中にあったが、チャーリーパーカーがどんな顔をしているのかも知らない。とりあえず去年ディスクユニオンで買った森田童子の7インチを埃の被ったプレイヤーでかけた。
ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな
チャーリー・パーカー見つけたヨ ぼくを忘れたカナ
ああそうですか、と思った。
恐山
車は法定速度で東北自動車道を北上する。
「……なるほど、このように〇〇さんでは、基幹となるプラスチックの製造に加え、SDGsや多様性(ダイバーシティ)の実現にも積極的に取り組んでいるんですね」
「音読やめろ。クソガキ」
運転席のマリが静かな低い声で注意する。マリは大学時代に組んでいたバンドのドラムだった。タイトでスネアドラムがよく抜けたいいビートを叩く。髪型は学生時代からの黒いボブカット。後部座席からハンドルを握る白い左手と腕まくりした米軍のカーキのシャツが見える。左手の爪は朱色に塗られている。左手首にはシルバーのカシオの腕時計。バンド時代から愛用してるやつだ。
「そういうのが金になんのよ。交換可能な仕事。ブルシット・ジョブ。私割と社交的だから代理店が仕事くれんのよ。サンクス資本主義。ファック拝金主義」
彼女はフリーランスのライターで生計を立てている。僕が声に出して読んだのは、彼女最近手がけたという大手化学メーカーのパンフレットの中の記事だ。
「文章なんてね。誰でも書けるのよ。訓練すれば。でも大体の人間には書くべきことなんかないのよ。私も例外でなくそう。だから作家にならずにライターに逃げた」
「文化的雪かき」
僕がライターと聞いて反射的に返す。
「村上春樹だっけそれ言ったの。まあそういうこと。雪があるから雪かきの仕事をしているだけ。企業はSDGsのアピールをしなきゃいけないからSDGsの記事を書く仕事がある。ファッキン・グローバル・アース」
「というか、あんたも雪かきをやめなきゃよかったのよ。経理だか総務だかしんないけど。今どきろくな仕事なんかないんだから」
マリが続ける。
「そうだな」
僕は先月末で新卒で入った職場を辞めたのだ。例によってブルシット・ジョブに他ならない、東京の食品メーカー(そこはパンに塗るペーストの生産を主力していた)の総務部に配属され、細々と仕事をしていたが、嫌になって辞めた。会社で片思いをしていた同期の女が突然結婚したのだ。例によって同期の一番嫌いな男と。彼女もまた彼と同じく俗物だった。
「まあ、あまりにナードすぎて笑ったけど。あんた度胸なくて職場恋愛自体出来ないからね」
「付き合えても別れたら職場辞めてたよ。どちらにしろ」
「知らん。運転中に眠たいことを言うなカス」
……というわけで、失恋で傷心し仕事を辞めて時間があり余っていた僕は、幼いころ親に旅行で連れて行ってもらった青森県の下北半島にある恐山を目指し、2月の東北自動車道を北上している。東京の友人で唯一免許を持っているマリに頼んで。勿論僕は免許を持っていない。さっき郡山市と書かれたプレートの前を通過した。マリの実家の日産の4シーター後部座席にだらしなく寝っ転がりながら。
「なんかCDでもかけてよ」
退屈した僕は言った。
「今日び車でCDなんかかけねえよ。スマホからBluetoothで飛ばしたら流れるから好きにして」
僕はiPhoneでApple Musicを開き、BGMを探す。ここ数年は社会人生活にかまけて学生時代のようにCDを掘ることもなかった。とりあえずマリも知ってそうなものを再生履歴と自分の頭の引き出しから探す。すると頭の方から一枚のアルバムがサジェストされた。ザ・ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン『オレンジ』。1993年リリース、僕とマリの生まれ年に出たレコード(記録)だ。
「ジョンスぺかー!なつかしい」
一曲目の「ベルボトムズ」のイントロを聴いてマリは言う。
「車なんて私もホントは運転したかないんだけど。テンポ速い曲だと事故りそうになる。日本語の曲は歌詞が邪魔だし。ジョンスぺはちょうどいいわ」
ラッセル・シミンズの叩くミドルテンポの豊かな響きのドラムス、ルーズなジョン・スペンサーのギターによる単音のリフ、それを補完するようなもう一本のタイトなバッキングギターのジュダ・バウワー、そしてジョン・スペンサーの口から繰り返される「ブルース・エクスプロージョン!」のシャウト。
「しかし東北自動車道には似合わんね。なんか、その、ルート66だっけ?砂漠みたいなとこを突っ切るやつ。そういう乾いた感じ」
マリがジョンスぺのリズムに上半身を軽く揺らしながら言う。
「確かに。イージーライダーだっけ?映画見てないけど……でも、ジョンスぺってニューヨークだよね?曲でニューヨークシティ!って叫んでるし。マンハッタンは地下鉄だよね。確か」
僕らはアメリカについて何一つ知らない。みんなフェンダーやネットフリックスが大好きなのに。
車が岩手県に入った。もう6時間は乗ってる。ずっと硬いシートに座っていたからお尻が痛いが、運転してもらっている手前、愚痴をこぼす訳にもいかない。そんなことを考えていると、イントロに重たいスクラッチの入った、歌のない曲が流れる。
「グレイハウンド」
思わず僕は呟いた。とりわけアルバムの中でこの曲をよく聴いてた。ヒップホップ黎明期に作られたようなテンポの遅い重たいビートなのに、誰もラップをせず、ドラムの他に聴こえるのはギターだけだ。
「ザ・ジョンスペって曲ね。ところでグレイハウンドってなに?」
「おれも気になって調べたんだけどさ、アメリカの長距離バスの名前だってさ。バックパッカーが乗るようなやつ」
「へえ。アメリカ様の物価じゃ私はバックパッカーなんか出来ないけどね」
またしてもアメリカについて僕らは何も知らない。
「この車もグレイハウンドってわけだ。本州横断。アメリカ大陸横断」
「そうだね」
疲れてる僕は適当に相槌を打つ。窓の外は雪が降っている。高速道路の外に山中の小さな集落があるのが見える。アメリカまで行かなくたってそこは十分異国のように感じる。
僕たちは早起きが苦手だった。バンドで大阪に遠征したときも一人が遅刻して彼は新幹線で向かう羽目になった。かろうじて朝6時の集合に間に合った僕とマリはそいつの悪口を言いながら、2人でレンタカーに機材とバンドのCDやTシャツの入ったトランクを詰めこみ、大阪に向かった。そういえばマリと2人で長時間話すのはそのとき以来だった気がする。僕らに男女の関係はない。お互いに性的魅力を感じていないというのもあるが、あのときの僕らは曲がりなりにも、バンドという表現を自由恋愛より遥かに崇高なものだと信じていた。もちろん、僕もマリも彼も、普通の大学生だったから、それぞれ違うところでで人並みに恋して、普通に振ったり振られたりを繰り返していた。それを大学の近くの駅前のマクドナルドでポテトをつまみながらグダグダと互いに悪態をつきながら話して暇を潰した。
「おまえさ、あいつはヤバいって言ったじゃん」
マリがポテトを右手でつまみながら茶化して笑う。
「おまえ病んでんだからさ、病んでる女はダメだよ。治す人いないじゃん。イッツソーシック」
「……」
昨日こっぴどく振られた僕は二人が奢ってくれたポテトに手をつける気になれず、机に突っ伏してる。
「まあ、おれは順調だからね」
彼が端正な顔で呟く。彼には大学一年生の頃から、ロシア語のクラスで一緒になったことがきっかけで付き合い始めた恋人がいる。お互い初めての恋人だったらしい。
「オメーヨユーこくな!ギター練習しろ!」
「僕が書いた曲をやっててよく言うよ、僕の曲だからこれが正解なんだよ」
「正論うるせえよ!冷静すぎんだよ!そしておまえは突っ伏してねえで早く顔あげろ!」
そこで僕は目が覚めた。いつのまにか後部座席で眠って僕とマリと彼の夢をみていた。彼は今何をしているんだろうか。目を覚ますと高速は降りいて青森の下道だった。とっくに日は暮れていて、コンビニなどの商業施設もなく、道沿いに街灯だけが等間隔に並び発光している。だんだんと暗闇に目が慣れてきて、暗闇の中にあるものを認識出来るようになる。雪は降ってはいないものの、地表を覆い隠すくらい積もっている。左右を木々に挟まれた箇所を通過し、小さな集落が見える。その奥に白いはんぺんのような光が揺れている。
「海?」
僕は家族旅行に連れてこられた子供のように、力なく呟いた。
「ああ起きたの。ナビによるとここは陸奥湾らしいね」
マリがバックミラー越しに軽くこちらを見て答える。
「もうすぐだよ。あー運転疲れた。早く旅館で飲みたい」
しばらくすると、ファミリーレストランや家電量販店などのロードサイド店舗が並ぶ市街地に入った。どうやら下北半島の中心都市であるむつ市に入ったらしい。恐山へ向かう山道の入り口はむつ市中心部の近くにある。車はかろうじて観光地然とした古びたビジネスホテルや旅客のある市街地を抜け、山道に入る。再び、車は暗闇の中に投じられる。街灯すら殆どない。暗い山の中を走っていたら、いきなりマリがブレーキを踏んで言った。
「あれ、行けないじゃん」
周りに電灯がないから、車のヘッドライトだけが暗闇の中でパース線のように広がり、前方を照らしていた。そこには、山道を封鎖する錆びた鉄門と冬期の通行止めを示す看板が見える。とりあえず車を路肩に止め、マリと僕はコートを羽織り、その鉄門のところまで行ってみることにした。
「冬期間通行止め、11月20日から4月20日まで……」
先に歩いていった僕が看板の文字を読み上げた次の瞬間、「◎☆!」とマリが叫び拳が僕の溝落ちに入った。彼女はドラムをやる前、合気道をやっていたそうだ。
「〜!」
悶絶。バンド時代はよく暴力を受けたものだ。口も腕も立つ相手には敵わない。
「おまえが&%△¥…だから、######で、$%°&m=45/'んだよ!ファック!」
雪山で馬乗りになって罵声を吐かれながら殴打される。地面は凍っており硬い。長時間運転してくれた彼女への申し訳なさと、冬の間恐山が閉山してることすら知らなかった自分の愚鈍さを頭で感じると同時に、身体は寒さと殴打により物理的に痛めつけられていた。
マリはひとしきり怒り狂うと、スッといつもの調子に戻る。武道の使い手として、素人に対しての引きどきがわかっているようだ。路肩に止めた車の前で、帰りのバスを待っている田舎の中学生のように座り込んだ。マリはコートのポケットに入れていたタバコとライターを取り出し、タバコを吸い始める。
「お前バカだな」
一服したマリの第一声を発する。
「すまん」
「今日どっか泊まれるの」
僕が旅行サイトでむつ市内の宿泊施設を調べる。行きで通過した市街地のあたりに、大人2人で素泊まり7000円の旅館があった。そのままネット予約する。iPhoneは21:36を指している。早く向かおう。
「こんな冬山、一人でいけよ」
「すまん」
「……詫びにお前んちのフェンジャパくれ」
「ええっ!?」
僕の家には付き合っていた彼女が置いていった、1993年製のフェンダージャパンの黒いストラトキャスターがあった。奇しくもバンドメンバー3人、つまり、僕とマリと彼の生まれ年に製造されたものだった。彼女は僕より2つ年下だった。自分はバンドでは新品で買ったギブソンのレスポールを使っていたのだが、そのフェンダージャパンのストラトキャスターをアンプに繋ぐと、不思議な澄んだ音がした。彼女もまたバンドをやっていて、それを舞台上で弾くと、波や風のない陸から遠くはなれた穏やかな海が僕の目に浮かんだ。……というわけで、そのギターはケースに入れられてアパートの収納棚に置かれているのだが、彼女と別れたあともなんとなく捨てられずにいた。
「あんなもん持ってるからフラれんだよ。いい機会だろ」
「わかったよ。お前にやる。途中でコンビニも寄ってくれ。奢るから好きなだけ酒も買えよ。飲もうぜ」
「サンクス!」
彼女は信頼に足る友人である。
話を決めた僕らは、エンジンをかけ、旅館に向かって山道を下った。
議事録
A「で、どうします?笑 彼ら、通します?笑」
B「会場の沸き方から言って順当でしょう」
C「私もそう思います……」
D「いや、あのウケとはいえ小学生でメタネタですよ?」
A「そこは本質ではないでしょう笑」
B「今回のネットの反応を見るに、彼らを通過させないと槍玉にあがるのは我々です。」
C「私もそう思います……」
D「しかしネタの内容・性質として、彼らを通すと大会の理念そのものが揺らぎかねない。」
A「その”理念”が、”いいネタは通す”っていつもDさん言ってるじゃないですか笑」
B「社会通念上、問題となりそうな表現もないですね」
C「私もそう思います……」
D「いやいや一回戦・二回戦はまだしも、ここを通したら次ステージは全組動画アップですよ?」
A「まあ彼らは確信犯的なネタを持ってくるでしょうね。あ、確信犯の使い方あってます?笑」
B「あってます」
C「私もそう思います……」
D「……まったく三万で受ける仕事じゃないよ、これは……」
A「毎年審査の評判エゴサして病むからですよ笑」
B「ここは”理念”の次の”原則”、多数決でいきましょう。私は通過に賛成です。」
C「私もそう思います……」
D「反対に一票」
A「あ、ボクで決まっちゃうのか笑 賛成で」
B「賛成3票、反対1票で、通過で決定ですね。少々揉めましたが、何も問題ないかと」
C「私もそう思います……」
D「……ここまでで議事録残しときます」
トビウオのかたちをした木片
「もしもし、マブチさまの携帯電話でよろしいでしょうか」
全く知らない低い男性の声。40代から50代くらいだろうか。バイトを休んでベッドで寝ていたら、知らない番号から着信が入った。外は梅雨時でザアザアと雨がふっていた。よく考えもせず反射的に出る。
「はい、マブチですが」
若干寝ぼけている。右耳で相手の声を聞き、左耳では雨の音が入ってくる。
「さようですか。いきなりで申し訳ないのですが、新宿駅の13番線のホームの端に、サングラスをかけた黒い背広の男がいるのですが、彼からトビウオのかたちをした木片を受け取っていただけないのでしょうか」
「はい?」
トビウオ?木片?
「でないと、世界が終わるのです。近々」
「はい。」
そりゃ大変だ。
「新宿駅の13番線のホームの端に、サングラスをかけた黒い背広の男性がいて、彼からトビウオのかたちをした木片を受け取ればいいのですね?」
「さようでございます」
とにかくバイトが休みの日は寝ている。バイトは週4日で、さほど働いているわけではない。それでもまあま疲れる。あとは、両親からの仕送りで暮らしている。基本的になにもないときは鬱でずっと寝込んでいる。
とりあえず、行くといったからには、外にでる支度をする。軽く化粧をし、部屋着じゃないスウェットに着慣れたジーンズを履いて、スニーカーを履き、戸締りをする。アパートの屋根を雨が激しく打っている。
新宿までは最寄りからおよそ30分。たまに友人とお茶しに行く程度だ。JR新宿駅の13番ホーム。調べたらどうやら中央線のホームのようだ。山手線を使って新宿駅に着く。雨がホームの屋根を打つ音が絶え間なく聴こえる。幼稚園のとき、雨合羽を着て母親に手を引かれ大雨の中帰ったことを思い出す。
13番線だ。新宿はあまり好きでない。用事があるから行く。サングラスに背広の屈強な男がいようと、駅のホームで刺されたりはしないだろう。多分。とりあえず、ホームを歩く。どちら側の端かは分からないが、さして問題でない。自分が階段をのぼっていった方向のまま進む。するとそれらしき男がいた。案外簡単なものだ。
「あなたが木片の方ですか?」
「そうです。お待ちしておりました」
こちらは電話の男の部下だろうか。恰幅の良い30代くらいの男。
「こちらを」と言って、アタッシュケースから丁重に木片をだした。
確かに、トビウオのかたちをしている。片手で握れるほどの大きさだ。
「ありがとうございます。これをどうすれば?」
「できれば、ご自宅に持って帰っていただけると」
少し荷が重い。大切に保管しなければならないのだろうか?
「はい。わかりました。」
それから、私は、失くさないように、リュックサックの小さいポケットにそれを入れて、家に帰った。体力のない私は、それだけでぐったりと疲れてしまった。トビウオのかたちをした木片は、なんだか何かの念がこもっているようで怖かったので、普段使わない机の引き出しにそっと置いた。そのまま、眠りについた。
何時間寝たんだろう。起きたら翌日の午後3時だった。雨はまだザアザアと降っている。世界は終わらないのかと落胆した。
苦労猫
男は苦労人だった。苦労人は苦労猫を飼っていた。苦労人は餌を買う金を稼ぐのにも苦労した。働くのに苦労していなければ苦労人と呼ばれていないだろう。そのため、苦労猫は時折餌をもらえなかった。だから苦労猫と呼ばれた。だが、男は金が入るとまっさきに猫の餌を買った。残りの少ない金で男は生活をした。たまに夕食を抜いた。猫も、給料日が近づくにつれ、食べる量を減らした。苦労人は苦労猫を飼っていた。
頭がギーってなる
妹が壊れたのは、僕が高一のころだった。
僕は、志望していた学区内トップの高校に進学した。高校受験の成功は、トロフィーや賞状とは無縁の中学生だった僕にとって、初めて他人に認めてもらえたような気がしたのだ。
しかし、入学して早々に、その自信も段々曇ってきた。ヤンキーもオタクも、貧乏も金持ちもいる、いわば坩堝である中学から、同じくらいのレベルの学力の生徒が入学する高校に進学すると、当然、そこにいる人間の種類の幅は狭くなる。特段個性のない自分は、排除されはしないものの、大きい高校の中に埋もれていく感じがあった。
少しずつ体の中が鉛で詰まっていくように、憂鬱は肥大していった。鉛の入った体の足取りは重い。なんとか学校を終えると、家に帰ってパソコンでネットをするか、レンタルビデオ屋で借りた映画を親のいないリビングで見ていた。何にも没入できない、そんな日々が続いた。
その頃、妹は僕と同じ中学の二年生だった。バレーボール部に所属して、成績は中の下くらい。闊達で明るく、友達が多いタイプだった。特段兄妹の仲が良いわけでもなかったが、普通に会話はしていたし、僕が中学のときは、たまに勉強を教えてやったりしていた。ところが、高校生活の雲行きが怪しくなると、妹の屈託のなさが気に障るようになってきた。今まで気にしていなかった些細なことが引っかかるようになってきた。
幼い頃からのクセなのだが、とにかく僕は自分の頭の中で常に喋っていた。例えば、面白い物語本を読んだら、聞かれてもないのに、その感想を、紙に書かずに、脳内で文章にして、いつでもそれを引き出せるようにしていた。脳内の言葉でも、正しい用法か気になり、ネットで検索して辞書サイトで確認していた。その性格が災いして、言葉に頓着のない妹に対して、嫌味たらしく詰問するようになった。
「的を得る、じゃなくて、的を射る、だから」
「過大評価されすぎってなに?過大評価されている、でいいでしょ。二重表現だよ」
「ななめっている、て言うのやめて。せめてななめになっている、くらい言えるでしょ」
「身長がデカい?身長は高いか低いかだから」
妹は、最初は「どうだっていいじゃん」と軽く流していたが、段々と表情が暗くなって、何も返さなくなった。それでも、鬱憤がたまっていた未熟な僕は一々指摘し続けた。そして、ある日の夕食時に、また同じように問い詰めたら、妹は大声で泣き始めて、リビングを飛び出して自室に帰ってしまった。そのときは僕も一種の錯乱状態で、ことの重大さを分かっていなかったが、翌朝目覚めたとき、強烈な罪の意識に襲われた。一人の人間を壊してしまった。安易に謝ることも、倫理的に間違っているような気がして出来なかった。そうすると罪の意識は日を追うごとに膨張していく。しばらく、会話のない期間が続いた。
先に口を開いたのは、妹の方だった。
「あのとき、お兄ちゃんの言葉で、頭がギーてなった」
頭がギー?
「だから嫌だった、ガーって言われると心臓がグシャってなる」
ガーって言われると心臓がグシャってなる。
「アー、イ、イ、イ、ウー、あ、ごめん」
妹より先に謝らなかったことへの情けなさを感じると同時に、辞書的な言葉の扱いを極端に恐れた妹が一人で独自の擬音語を生み出したことを理解した。
「そっか、ごめん。おれも、高校で上手くいかなくて、辛く当たっちゃたんだ。謝るのが遅くなってごめんなさい」
「わかった」
少しだけ、罪は軽くなった。そっか。兄ちゃんも頭がギーってなるよ。
それからもう、妹と話すことはなくなった。でも妹は以前ほどではないにせよ元気でやってるし、僕も高校生活との折り合いをつけられるようになった。とりあえず今はこのままでいこう。
世界の果てのぶっ壊れるような邂逅ver_0.1
彼女に出会ったのは、会社の近くのコンビニに昼食用のパンを買いにいったときのことだ。
彼女は、白く整った顔立ちに、黒い髪を首元まで伸ばし、半袖の白い綿のワンピースに、よく磨かれたプレーントゥの黒い革靴を合わせていた。美少女と呼ぶには美しさを重く背負いすぎているように感じた。細い身体からは、濃霧のような色合いの服装と正反対な、黒い影を落としていた。あの白々しい蛍光灯がつけっぱなしの、コンビニの中でである。
それは世界の果てのぶっ壊れるような邂逅だった。
それから、飛躍するが、僕らはデートを重ねることになった。そこに至る手続きは退屈だから割愛する。あのコンビニの中で、僕が彼女に声をかけただけだ。
ああ、デート、デート、デート。
僕は自意識過剰で、デートという俗な響きに耐えられなかった。デートがわからなかった。いや、デートをわかりたくなかった。ただ、彼女のことは好きだった。掛け値なしに。だからデートをせざるを得なかった。
ああ、デート、デート、デート。
いつだったか、2人でデートをして、代々木公園で終電を逃したときの話だ。僕らはぐるぐると、公園の周りを歩き始めた。その間一言も交わさずに。やがてどちらかが疲れ果て、ちりぢりになるまで、歩き続けた。そんな不器用なデートしか僕らにはできなかった。
そんな日々を過ごしているうちに、彼女から家庭の都合で遠くに引っ越すことを聞かされた。その頃僕らは、デートの仕方があまりに下手で、消耗しきっていた。そうした背景もあり、これが節目と、別れることにした。
そこからが大変だった。彼女の美しさにぶっ壊された僕は、唐突な別れから日常生活が困難になるほど弱ってしまった。あの下手くそで不器用なデートは、コンビニでぶっ壊された僕の対症療法だったのだと今更気がついた。精神科の医者に診断書をでっちあげてもらい、会社を三カ月ほど休職して、どうにか社会復帰した。
今も僕はコンビニで彼女にぶっ壊されたままだ。あのコンビニは世界の果てで、それはぶっ壊れるような邂逅だった。