躍動する脳みそ

千川新のブログ

インマイライフ

「ビートルズのインマイライフのピアノソロ弾いてよ。」
「あれ、テープを早回ししているの知ってるでしょ。」

彼女の言う通り、確かにビートルズのアルバム、ラバー・ソウルの日本盤のライナーノーツにそう書いてあった。あれはプロデューサーのジョージ・マーティンが弾いて録音したテープの回転速度を上げたものだと。僕は昨日父親の書斎にあったそのCDを聴いたばかりだった。少年の思いは飛躍しやすい。

「じゃあ、一週間、時間をちょうだい。頑張ってコピーするから。来週の日曜日。」

僕と彼女は高校の軽音部で出会った。軽音部では、僕は自分で買った安物のサンバーストのレスポールを弾いて、彼女はいつも部室の備品のエレピを弾いていた。僕らは曲なんか作らず、だらだらと普通の日本の10代が聴くような音楽のコピーバンドをやっていた。実はその頃から彼女は一人で、昔のパンクやジャズを聴いていたそうだ。それは僕が大学を出たあと、一回だけ東京の道端で彼女とバッタリ会って、その近くで少しだけ飲んだときに聞かされた。

僕らは放課後、よく彼女の部屋で遊んだ。高校から歩いていける距離の一戸建て。いつも玄関に入って「お邪魔します」とボソッと言ってから、廊下を進み、リビングで作業している彼女の母親にもう一度「お邪魔します」と軽く会釈してから、2階にある彼女の部屋に上がった。そのリビングにはYAMAHAのアップライトピアノがずっと置いてあった。初めて彼女の家に来たとき、こんな会話を交わした。

「あのピアノは弾かないの?」
「あれね、小4まで習ってたんだけど、塾が忙しくなってレッスンに行かなくなっちゃって。で、中学生になったら、指はまだ動いたし、習った曲も覚えていたんだけど、あの大きい黒い木の箱を目の前にするのが気が重くなっちゃって。音も生楽器だから大きいし。なんで私はこんな大きなものを無邪気に弾けてたんだろう?って。」
彼女にはどうしても行きたいと思っていた私立の女子校があって、小学生のとき中学受験のため塾に通っていた。その兼ね合いで幼い頃から通っていたピアノ教室をやめた。結局、その女子校はすんでのところで受からず、他に滑り止めも受けなかったため、僕と同じ区の違う公立中学に入学した。行きたい学校に受からなかったのは残念なことだったが、別に受験勉強に苦しい思い出もなく、小学校では友達の多いタイプだったので、その友達と同じ中学に通うことに特に抵抗はなかった。それより、中学生活が落ち着いて、久しぶりにピアノの目の前に立ったとき、生まれて初めて、自分の中の明確な意識の変化を自覚して、少し落ち込んでしまったという。それでも、中一の終わり頃には、TSUTAYAで 2000年あたりの日本のバンドのCDを借りたりしてまた音楽に興味を持ち、自分のお年玉貯金からYAMAHAの61鍵のエレピを買って、部屋で一人で弾いていたらしい。

そして、僕らは2階に上がると彼女の部屋でいつも、凡庸な10代らしくだらだらとすごした。僕はギターを、彼女はエレピを、それぞれイヤホンをつけながら練習したり、クラスメイトたちの話をしながら古文の課題をやったり、TSUTAYAで借りてきた古い映画を見たり、台所から彼女の父親のワインをくすねて少しだけ飲んだり、たまに自分たちの自意識や関係性や将来への不安を高校生なりに真面目に語りあったりした。そうやって僕と彼女はいつも部屋の中で親しさを交換していた。

僕は彼女が部屋でエレピを弾く姿を見るのが好きだった。彼女は部屋に入ると制服のブレザーを脱いでちゃんとハンガーにかけたあと、学校指定のブラウスとスカート姿であぐらをかいて、カーペットの敷かれた床に置かれたYAMAHAを弾いていた。イヤホンを頭にはめてエレピにプラグを挿して、練習曲の音階を探っていく。曲を一通り弾けるようになると、今度は僕にイヤホンをはめて演奏を聴かせてくれた。

彼女は少し癖のある髪を肩くらいまで伸ばしていて、よく鍵盤の上に、抜けた彼女の長い髪が落ちていた。
「私、よく髪の毛が抜けるの。ちょっと前まではコンプレックスだったけど。でも、髪切りに行くと毛量多いね、って言われるから、多少抜けても別にいいかな、って最近は思うようにしてる。」
そのとき、健気な人だな、と思った。

インマイライフのピアノソロを彼女にお願いして、弾いてくれた日。僕は手持ちの服からなるべく品のいいものを選んで、彼女の家に向かった。
彼女は深い紺色のリネンの袖のないワンピースに、白い真新しいソックスを身に付けて、髪の毛は一つ結びにしていた。その光景をよく覚えている。彼女が髪を一つ結びにしているのを見るのはそれが初めてだった。

「ピアノの発表会みたいでしょ。」
言うか迷っていたことを先に言われた。
「厳しかったのよ。ピアノの先生。女の人なんだけど。見だしなみとかもね。ピアノに髪が落ちるといけないから、レッスンのときもいつも結んでた。」
「さっき、ふと思い出したのよ。でも、なんか気合い入るね。これ。」
「話それた。じゃあ、やっていい?」
無言で頷く。

彼女は静かに息を吸い、エレピに指を置く。いつもはイヤホンだが、今日は内蔵スピーカーから音を出している。家に近づいたときかすかに、2階から彼女が響きを確かめている音が聞こえた。首で小さく4カウントをとり、インマイライフのピアノソロを弾き出す。

たった20秒ほどの演奏。そういえば演奏をお願いしてから毎日、何十回もラバーソウルのインマイライフだけを繰り返し聴いていた。ピアノソロだけを巻き戻して繰り返し聴くこともあった。そんなことはせずに、全く聴かずに今日をむかえた方が良かったのか。そんなことを考えてる一方で、彼女は正確な運指で一つ一つのノートをはっきりと立ち上げる。何回も聴いたあの旋律を組み立てていく。春と夏の間の日曜日の静かな住宅街の一室。

演奏が終わる。
「完璧だった……」
僕はそう呟く。それは僕の想定を遥かに超えている、必然性のある響きだったから。
「一週間にしては上出来かな。でも一箇所だけミスタッチがあったわ。」
そのとき、そうか、と軽く頷いた。

今もたまに、一人でいるとき、ビートルズのインマイライフを聴く。彼女の言うミスタッチはどの箇所だったんだろう?でも彼女の演奏は録音していない。それでよかった。それがよかった。あれは紛れもなく、あのときの僕だけが聴くべき、完璧な演奏だったから。