恐山
車は法定速度で東北自動車道を北上する。
「……なるほど、このように〇〇さんでは、基幹となるプラスチックの製造に加え、SDGsや多様性(ダイバーシティ)の実現にも積極的に取り組んでいるんですね」
「音読やめろ。クソガキ」
運転席のマリが静かな低い声で注意する。マリは大学時代に組んでいたバンドのドラムだった。タイトでスネアドラムがよく抜けたいいビートを叩く。髪型は学生時代からの黒いボブカット。後部座席からハンドルを握る白い左手と腕まくりした米軍のカーキのシャツが見える。左手の爪は朱色に塗られている。左手首にはシルバーのカシオの腕時計。バンド時代から愛用してるやつだ。
「そういうのが金になんのよ。交換可能な仕事。ブルシット・ジョブ。私割と社交的だから代理店が仕事くれんのよ。サンクス資本主義。ファック拝金主義」
彼女はフリーランスのライターで生計を立てている。僕が声に出して読んだのは、彼女最近手がけたという大手化学メーカーのパンフレットの中の記事だ。
「文章なんてね。誰でも書けるのよ。訓練すれば。でも大体の人間には書くべきことなんかないのよ。私も例外でなくそう。だから作家にならずにライターに逃げた」
「文化的雪かき」
僕がライターと聞いて反射的に返す。
「村上春樹だっけそれ言ったの。まあそういうこと。雪があるから雪かきの仕事をしているだけ。企業はSDGsのアピールをしなきゃいけないからSDGsの記事を書く仕事がある。ファッキン・グローバル・アース」
「というか、あんたも雪かきをやめなきゃよかったのよ。経理だか総務だかしんないけど。今どきろくな仕事なんかないんだから」
マリが続ける。
「そうだな」
僕は先月末で新卒で入った職場を辞めたのだ。例によってブルシット・ジョブに他ならない、東京の食品メーカー(そこはパンに塗るペーストの生産を主力していた)の総務部に配属され、細々と仕事をしていたが、嫌になって辞めた。会社で片思いをしていた同期の女が突然結婚したのだ。例によって同期の一番嫌いな男と。彼女もまた彼と同じく俗物だった。
「まあ、あまりにナードすぎて笑ったけど。あんた度胸なくて職場恋愛自体出来ないからね」
「付き合えても別れたら職場辞めてたよ。どちらにしろ」
「知らん。運転中に眠たいことを言うなカス」
……というわけで、失恋で傷心し仕事を辞めて時間があり余っていた僕は、幼いころ親に旅行で連れて行ってもらった青森県の下北半島にある恐山を目指し、2月の東北自動車道を北上している。東京の友人で唯一免許を持っているマリに頼んで。勿論僕は免許を持っていない。さっき郡山市と書かれたプレートの前を通過した。マリの実家の日産の4シーター後部座席にだらしなく寝っ転がりながら。
「なんかCDでもかけてよ」
退屈した僕は言った。
「今日び車でCDなんかかけねえよ。スマホからBluetoothで飛ばしたら流れるから好きにして」
僕はiPhoneでApple Musicを開き、BGMを探す。ここ数年は社会人生活にかまけて学生時代のようにCDを掘ることもなかった。とりあえずマリも知ってそうなものを再生履歴と自分の頭の引き出しから探す。すると頭の方から一枚のアルバムがサジェストされた。ザ・ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン『オレンジ』。1993年リリース、僕とマリの生まれ年に出たレコード(記録)だ。
「ジョンスぺかー!なつかしい」
一曲目の「ベルボトムズ」のイントロを聴いてマリは言う。
「車なんて私もホントは運転したかないんだけど。テンポ速い曲だと事故りそうになる。日本語の曲は歌詞が邪魔だし。ジョンスぺはちょうどいいわ」
ラッセル・シミンズの叩くミドルテンポの豊かな響きのドラムス、ルーズなジョン・スペンサーのギターによる単音のリフ、それを補完するようなもう一本のタイトなバッキングギターのジュダ・バウワー、そしてジョン・スペンサーの口から繰り返される「ブルース・エクスプロージョン!」のシャウト。
「しかし東北自動車道には似合わんね。なんか、その、ルート66だっけ?砂漠みたいなとこを突っ切るやつ。そういう乾いた感じ」
マリがジョンスぺのリズムに上半身を軽く揺らしながら言う。
「確かに。イージーライダーだっけ?映画見てないけど……でも、ジョンスぺってニューヨークだよね?曲でニューヨークシティ!って叫んでるし。マンハッタンは地下鉄だよね。確か」
僕らはアメリカについて何一つ知らない。みんなフェンダーやネットフリックスが大好きなのに。
車が岩手県に入った。もう6時間は乗ってる。ずっと硬いシートに座っていたからお尻が痛いが、運転してもらっている手前、愚痴をこぼす訳にもいかない。そんなことを考えていると、イントロに重たいスクラッチの入った、歌のない曲が流れる。
「グレイハウンド」
思わず僕は呟いた。とりわけアルバムの中でこの曲をよく聴いてた。ヒップホップ黎明期に作られたようなテンポの遅い重たいビートなのに、誰もラップをせず、ドラムの他に聴こえるのはギターだけだ。
「ザ・ジョンスペって曲ね。ところでグレイハウンドってなに?」
「おれも気になって調べたんだけどさ、アメリカの長距離バスの名前だってさ。バックパッカーが乗るようなやつ」
「へえ。アメリカ様の物価じゃ私はバックパッカーなんか出来ないけどね」
またしてもアメリカについて僕らは何も知らない。
「この車もグレイハウンドってわけだ。本州横断。アメリカ大陸横断」
「そうだね」
疲れてる僕は適当に相槌を打つ。窓の外は雪が降っている。高速道路の外に山中の小さな集落があるのが見える。アメリカまで行かなくたってそこは十分異国のように感じる。
僕たちは早起きが苦手だった。バンドで大阪に遠征したときも一人が遅刻して彼は新幹線で向かう羽目になった。かろうじて朝6時の集合に間に合った僕とマリはそいつの悪口を言いながら、2人でレンタカーに機材とバンドのCDやTシャツの入ったトランクを詰めこみ、大阪に向かった。そういえばマリと2人で長時間話すのはそのとき以来だった気がする。僕らに男女の関係はない。お互いに性的魅力を感じていないというのもあるが、あのときの僕らは曲がりなりにも、バンドという表現を自由恋愛より遥かに崇高なものだと信じていた。もちろん、僕もマリも彼も、普通の大学生だったから、それぞれ違うところでで人並みに恋して、普通に振ったり振られたりを繰り返していた。それを大学の近くの駅前のマクドナルドでポテトをつまみながらグダグダと互いに悪態をつきながら話して暇を潰した。
「おまえさ、あいつはヤバいって言ったじゃん」
マリがポテトを右手でつまみながら茶化して笑う。
「おまえ病んでんだからさ、病んでる女はダメだよ。治す人いないじゃん。イッツソーシック」
「……」
昨日こっぴどく振られた僕は二人が奢ってくれたポテトに手をつける気になれず、机に突っ伏してる。
「まあ、おれは順調だからね」
彼が端正な顔で呟く。彼には大学一年生の頃から、ロシア語のクラスで一緒になったことがきっかけで付き合い始めた恋人がいる。お互い初めての恋人だったらしい。
「オメーヨユーこくな!ギター練習しろ!」
「僕が書いた曲をやっててよく言うよ、僕の曲だからこれが正解なんだよ」
「正論うるせえよ!冷静すぎんだよ!そしておまえは突っ伏してねえで早く顔あげろ!」
そこで僕は目が覚めた。いつのまにか後部座席で眠って僕とマリと彼の夢をみていた。彼は今何をしているんだろうか。目を覚ますと高速は降りいて青森の下道だった。とっくに日は暮れていて、コンビニなどの商業施設もなく、道沿いに街灯だけが等間隔に並び発光している。だんだんと暗闇に目が慣れてきて、暗闇の中にあるものを認識出来るようになる。雪は降ってはいないものの、地表を覆い隠すくらい積もっている。左右を木々に挟まれた箇所を通過し、小さな集落が見える。その奥に白いはんぺんのような光が揺れている。
「海?」
僕は家族旅行に連れてこられた子供のように、力なく呟いた。
「ああ起きたの。ナビによるとここは陸奥湾らしいね」
マリがバックミラー越しに軽くこちらを見て答える。
「もうすぐだよ。あー運転疲れた。早く旅館で飲みたい」
しばらくすると、ファミリーレストランや家電量販店などのロードサイド店舗が並ぶ市街地に入った。どうやら下北半島の中心都市であるむつ市に入ったらしい。恐山へ向かう山道の入り口はむつ市中心部の近くにある。車はかろうじて観光地然とした古びたビジネスホテルや旅客のある市街地を抜け、山道に入る。再び、車は暗闇の中に投じられる。街灯すら殆どない。暗い山の中を走っていたら、いきなりマリがブレーキを踏んで言った。
「あれ、行けないじゃん」
周りに電灯がないから、車のヘッドライトだけが暗闇の中でパース線のように広がり、前方を照らしていた。そこには、山道を封鎖する錆びた鉄門と冬期の通行止めを示す看板が見える。とりあえず車を路肩に止め、マリと僕はコートを羽織り、その鉄門のところまで行ってみることにした。
「冬期間通行止め、11月20日から4月20日まで……」
先に歩いていった僕が看板の文字を読み上げた次の瞬間、「◎☆!」とマリが叫び拳が僕の溝落ちに入った。彼女はドラムをやる前、合気道をやっていたそうだ。
「〜!」
悶絶。バンド時代はよく暴力を受けたものだ。口も腕も立つ相手には敵わない。
「おまえが&%△¥…だから、######で、$%°&m=45/'んだよ!ファック!」
雪山で馬乗りになって罵声を吐かれながら殴打される。地面は凍っており硬い。長時間運転してくれた彼女への申し訳なさと、冬の間恐山が閉山してることすら知らなかった自分の愚鈍さを頭で感じると同時に、身体は寒さと殴打により物理的に痛めつけられていた。
マリはひとしきり怒り狂うと、スッといつもの調子に戻る。武道の使い手として、素人に対しての引きどきがわかっているようだ。路肩に止めた車の前で、帰りのバスを待っている田舎の中学生のように座り込んだ。マリはコートのポケットに入れていたタバコとライターを取り出し、タバコを吸い始める。
「お前バカだな」
一服したマリの第一声を発する。
「すまん」
「今日どっか泊まれるの」
僕が旅行サイトでむつ市内の宿泊施設を調べる。行きで通過した市街地のあたりに、大人2人で素泊まり7000円の旅館があった。そのままネット予約する。iPhoneは21:36を指している。早く向かおう。
「こんな冬山、一人でいけよ」
「すまん」
「……詫びにお前んちのフェンジャパくれ」
「ええっ!?」
僕の家には付き合っていた彼女が置いていった、1993年製のフェンダージャパンの黒いストラトキャスターがあった。奇しくもバンドメンバー3人、つまり、僕とマリと彼の生まれ年に製造されたものだった。彼女は僕より2つ年下だった。自分はバンドでは新品で買ったギブソンのレスポールを使っていたのだが、そのフェンダージャパンのストラトキャスターをアンプに繋ぐと、不思議な澄んだ音がした。彼女もまたバンドをやっていて、それを舞台上で弾くと、波や風のない陸から遠くはなれた穏やかな海が僕の目に浮かんだ。……というわけで、そのギターはケースに入れられてアパートの収納棚に置かれているのだが、彼女と別れたあともなんとなく捨てられずにいた。
「あんなもん持ってるからフラれんだよ。いい機会だろ」
「わかったよ。お前にやる。途中でコンビニも寄ってくれ。奢るから好きなだけ酒も買えよ。飲もうぜ」
「サンクス!」
彼女は信頼に足る友人である。
話を決めた僕らは、エンジンをかけ、旅館に向かって山道を下った。