頭がギーってなる
妹が壊れたのは、僕が高一のころだった。
僕は、志望していた学区内トップの高校に進学した。高校受験の成功は、トロフィーや賞状とは無縁の中学生だった僕にとって、初めて他人に認めてもらえたような気がしたのだ。
しかし、入学して早々に、その自信も段々曇ってきた。ヤンキーもオタクも、貧乏も金持ちもいる、いわば坩堝である中学から、同じくらいのレベルの学力の生徒が入学する高校に進学すると、当然、そこにいる人間の種類の幅は狭くなる。特段個性のない自分は、排除されはしないものの、大きい高校の中に埋もれていく感じがあった。
少しずつ体の中が鉛で詰まっていくように、憂鬱は肥大していった。鉛の入った体の足取りは重い。なんとか学校を終えると、家に帰ってパソコンでネットをするか、レンタルビデオ屋で借りた映画を親のいないリビングで見ていた。何にも没入できない、そんな日々が続いた。
その頃、妹は僕と同じ中学の二年生だった。バレーボール部に所属して、成績は中の下くらい。闊達で明るく、友達が多いタイプだった。特段兄妹の仲が良いわけでもなかったが、普通に会話はしていたし、僕が中学のときは、たまに勉強を教えてやったりしていた。ところが、高校生活の雲行きが怪しくなると、妹の屈託のなさが気に障るようになってきた。今まで気にしていなかった些細なことが引っかかるようになってきた。
幼い頃からのクセなのだが、とにかく僕は自分の頭の中で常に喋っていた。例えば、面白い物語本を読んだら、聞かれてもないのに、その感想を、紙に書かずに、脳内で文章にして、いつでもそれを引き出せるようにしていた。脳内の言葉でも、正しい用法か気になり、ネットで検索して辞書サイトで確認していた。その性格が災いして、言葉に頓着のない妹に対して、嫌味たらしく詰問するようになった。
「的を得る、じゃなくて、的を射る、だから」
「過大評価されすぎってなに?過大評価されている、でいいでしょ。二重表現だよ」
「ななめっている、て言うのやめて。せめてななめになっている、くらい言えるでしょ」
「身長がデカい?身長は高いか低いかだから」
妹は、最初は「どうだっていいじゃん」と軽く流していたが、段々と表情が暗くなって、何も返さなくなった。それでも、鬱憤がたまっていた未熟な僕は一々指摘し続けた。そして、ある日の夕食時に、また同じように問い詰めたら、妹は大声で泣き始めて、リビングを飛び出して自室に帰ってしまった。そのときは僕も一種の錯乱状態で、ことの重大さを分かっていなかったが、翌朝目覚めたとき、強烈な罪の意識に襲われた。一人の人間を壊してしまった。安易に謝ることも、倫理的に間違っているような気がして出来なかった。そうすると罪の意識は日を追うごとに膨張していく。しばらく、会話のない期間が続いた。
先に口を開いたのは、妹の方だった。
「あのとき、お兄ちゃんの言葉で、頭がギーてなった」
頭がギー?
「だから嫌だった、ガーって言われると心臓がグシャってなる」
ガーって言われると心臓がグシャってなる。
「アー、イ、イ、イ、ウー、あ、ごめん」
妹より先に謝らなかったことへの情けなさを感じると同時に、辞書的な言葉の扱いを極端に恐れた妹が一人で独自の擬音語を生み出したことを理解した。
「そっか、ごめん。おれも、高校で上手くいかなくて、辛く当たっちゃたんだ。謝るのが遅くなってごめんなさい」
「わかった」
少しだけ、罪は軽くなった。そっか。兄ちゃんも頭がギーってなるよ。
それからもう、妹と話すことはなくなった。でも妹は以前ほどではないにせよ元気でやってるし、僕も高校生活との折り合いをつけられるようになった。とりあえず今はこのままでいこう。